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 ぶらり歩き   
 34. 出雲大社を訪ねて (1)   平成26年5月1日
 昨年は、伊勢神宮の20年ごとに執り行われる式年遷宮とともに、出雲大社の60年ぶりとなる平成の大遷宮が話題となり、観光客が急増してしまい、出雲周辺の宿の予約もままならない状況であった。しかし、今年になれば多少はほとぼりも冷めるであろうとの見込みどおり、運よく航空機、宿の手配が整い、ゴールデンウィークの半ばに、夫婦で出雲、石見銀山、松江の見物に出かけた。

 出雲を訪ねてみたいという思いに駆られた直接のきっかけは、縄文、弥生時代の日本古来の文明、文化のすばらしさと進歩性、古墳時代を経て大和朝廷が確立していく過程、卑弥呼の邪馬台国に代表されるように未だに謎に包まれた古代史の世界を、書物で知ったことである。特に、神話で伝えられる出雲王朝の大和王朝に対する国譲り伝説が心にとまったことにある。日本人の判官びいきの遺伝子が働いたのかもしれない。

 そして、もう一つの大きな要因は、これまでは子供に対する親の務めは済んだものとばかり安心していたが、ここ1年の間に急に独身の息子が果たして結婚できるのか気になりだしてきたことが、縁結びの出雲大社参拝に足を向ける無意識の強い力となった。

 羽田を飛び立ち、出雲縁結び空港からはレンタカーを利用して、行動と時間の自由度を確保して観光を楽しむ計画とした。

 出雲大社までの広域農道161号はほとんど信号もなく、両側には田畑が広がり、視界を遮るものがないことから、都会の雑踏と高層建物を見慣れた目には新鮮な風景に映る。斐伊川(ひいかわ)を渡り、畑電車北松江線の踏切を過ぎると、1992年4月に日本初の木造ドーム施設として開設された出雲ドームのマッシュルーム型の白い屋根が見えてくる。当時、寒冷地方でも冬場に運動を楽しむことができる施設として注目を浴びたことを思い出す。
 
 堀川を宇迦橋(うがばし)で渡ると、出雲大社本殿に向かう松並木の神門通りの緩やかな登り坂の道となり、両側の歩道には観光客の姿か多くなる。地図を頼りに出雲大社駐車場に向かい車を駐車し、あとは徒歩で出雲大社の参拝と見物をする。まずは、駐車場の向かいに並ぶ食堂の一軒に入り、出雲名物の割子そばの昼食を摂る。

 腹ごしらえを済ませて、出雲大社神域の入口に建つ二の鳥居(勢溜の大鳥居)(写真1)に出る。ここから振り返って神門通りを眺めると、道は下りになっていて遠くに高さ24mの一の鳥居(写真2)を見ることができる。
 二の鳥居から拝殿に向かう方向の空は透き通るような水色に輝き、神聖な気持ちにさせられる。二の鳥居を潜ると下りの参道となり、浄の池(きよめのいけ)を右に見て祓橋(はらえのはし)を渡るが、本来はここで禊(みそぎ)をして出雲大社の神域に入るのが習わしであったのであろう。祓橋を過ぎると、三の鳥居(写真3)が待ち構え、その先は両側に松並木が続く参道となる。すれ違う観光客の歩く姿も日々の生活に追いまくられるせかせかとした素振りは少しも感じられず、私の歩調も普段に似ずゆったりとし、心も悠々と何かを感得した清々しさを感じる。このような感覚は4月に初孫のお宮参りで参拝した明治神宮の参道を歩いた時にも経験している。

 松並木の参道の右側に開けた東神苑(ひがししんえん)に、古代に建っていた高層神殿を支えた3本の杉の巨木を金輪で縛って作った柱立て(写真4)が天高く聳え立てられている。この杉は、出雲大社の宮材を造る吉栗山から伐り出されたもので、高さ48m、直径80cmの巨大な杉を3本束ねて立て上げられ、その姿は長野県諏訪大社の御柱を彷彿とさせる。古事記によれば、大国主命が承諾した大和朝廷への国譲りに反対した大国主命の次男・建御名方命(たけみなかたのかみ)が諏訪まで逃れたと伝えられており、出雲国と諏訪は古代からつながりがあったと見え、柱立てと御柱には何らかの共通点があるような気がする。  
    

写真1 出雲大社 二の鳥居

写真2 神門通りと一の鳥居

写真3 三の鳥居と松並木 

写真4 出雲大社 柱立て

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